2014年8月30日土曜日

言語境界線と原発

まだオーストリー・アルプスの中にいます。言語のことではなく、原発のことを書きます。この地図はフランスの原発所在地を示したものですが、今回の旅行では随分と原発の近くに泊まったり通ったりしました。例えばグラブリーヌという一番北の原発から、20kmくらいのベルグbergueの町に泊まったし、東側のフェッセンハイムという所からは国境をこえて30kmくらいの所に滞在しました。私は世界中の原発がなくなった方が良いと考えてはいますが、今回の旅の目的と原発問題は関係ありませんでした。じゃあ何故に何度も原発のそばを通ったのでしょうか。これって偶然?もちろんフランスは原発大国なので、犬も歩けば原発に当たるのかもしれないけど・・・






この写真は今回の旅ではなく、昨年ローヌ川に沿った高速を走っている車中から撮ったものです。どの原発かは確認していませんが、高速道路のすぐ際に建っています。日本では海沿いですが、地図で分かるようにフランスでは川沿いに原発が林立しています。そして国境線沿い、人口の少ないところというのも重要な要素です。一方で私の旅の目的、ゲルマン語ロマンス語言語境界線はドイツとフランス国境線沿いだし、人口が多い都市化されたところは言語が変化しやすいので、どちらかといえば田舎を回っています。
この写真も今回のものではありませんが、シュパイアーというライン川沿いのドイツの町に、中世のユダヤ人の痕跡を訪ねました。行って驚いたのはこの町のわずか5kmの所に、フィリップスブルグの原発があることでした。ドイツは原発廃止を決めているものの、ここのようにまだ数年は稼動を続けるものもあります。フランスの原発地図では分かりませんが、このライン川沿いには、数々の原発が並んでいます。実はゲルマン・ロマンス境界は、かなりの部分でライン川に平行してその南側を進んでいます。これはローマ帝国領土の最大域とも密接に関わっているのです。そしてその歴史の証人ライン川は、今日では原発銀座でもあるのです。

2014年8月26日火曜日

言語境界線の終わり、そして

ゲルマン語ロマンス語の言語境界線にそって、フランス・ベルギー・(ドイツ)・ルクセンブルグ・(フランス)・(ドイツ)・スイス・(リヒテンシュタイン)・オーストリア・イタリア・(オーストリア)と通過してきました。

ちょっとだけハイキングでイタリア国境方向に登ってみました。切り立つ岩山の向こう側がイタリアなのでしょう。2500m級の山々はそう簡単に越えられません、ここでは言語の境界も自然の境界によって限定されているのが良く分かります。アルプスの尾根に沿ったこの国境をここから東に60kmほど行ったところで、ゲルマン語ロマンス語の言語境界線は終わります。ドイツ語圏はいま少し続きますが、一方のロマンス語使用地域は終わり、国で言うとスロベニアですがスラブ語使用地域に入って行くからです。

スラブ語とは、ロシア語・ポーランド語・チェコ語・ブルガリア語・セルボクロアチア語等々の旧東欧圏の言葉です。 現在紛争中のロシアとウクライナの2国も、東スラブ語族の中でロシア語とウクライナ語という比較的近い言語を持っています。ということでこの旅のメインテーマのゲルマン語ロマンス語言語境界線は終わりますが、ゲルマン語スラブ語の境界線が始まります。ぜひ次回の旅は「ゲルマン語スラブ語言語境界の旅」というのをやってみたいです。
そしてロマンス語とスラブ語の言語境界線というのも距離的に長くはないけれども存在します。写真は今回の旅とは直接関係ないのですが、去年訪ねたスロベニアのピランという港町です。ヴェネチア共和国に支配された時代はロマンス語系、オーストリーハンガリー二重帝国時代にはゲルマン語系、ユーゴスラビア時代から今日まではスラブ語系と言語的にも複雑な歴史を持っています。そしてこの町を守る城壁がロマンス語スラブ語の言語境界線だったことがあるのです。






山の向こうは

スイスからリヒテンシュタインをかすめ通り、オーストリアに入りました。次の目的地がまたまた山深いため、一度イタリアに出てからまたオーストリアに戻るという道順でした。写真はオーストリアとイタリアの国境です。今は何もしていませんが、昔の検問所・税関と思われる建物は残っていました。手前の石は昔風の国境表示で、ここからオーストリアであることを示しています。ただここは、どちら側もドイツ語圏なので言語境界線ではありません。


通過してきた南チロルと呼ばれるイタリアのドイツ語圏では、地名の表示はすべて独伊のバイリンガル表記でした。第二次大戦のときイタリアとドイツは日独伊三国同盟ということで、ナチスはこの地をドイツに編入することをしなかった(できなかった)ので、戦後も国境線は変わっていません。その点がフランス・ドイツ間の国境とは大きく違っています。写真のBrenneroがイタリア語、Brennerがドイツ語です。一字違いでしかないのですが、これって馬鹿馬鹿しいことなのでしょうか・・・

到着したのは、レーザッハ谷のObertilliachという村です。写真はちょっと下流のMaria Luggau村で、この辺りに来るのはもう4回目です。大変に傾斜のきつい谷なので、スキー場も作れず、観光シーズンは夏だけの場所です。涼しくて(今年は寒い)静かに静養するのにはもってこいの、何もない所です。







そして宿の窓から見える南側の山々(奥の方は霧で見えていない)の向こうはイタリアで、そこが国境であると同時にゲルマン語ロマンス語の境界線です。以前来たときには、素朴に向こう側は、イタリア語なんだと思っていましたが、今回はこのブログのためにイタリアの言語地図を見て 調べてみました。すると山の向こうの向かって右側はヴェネト語とラディン語の混ざった地域で、向かって左側はフリウリ語で、所々にドイツ語を使用する飛び地があるということです。

この地域のドイツ語は、Southern Austro-Bavarian(南オーストリア-バイエルン方言)というようです。スイスドイツ語同様に標準ドイツ語とはずいぶん違います。写真左上は、ドイツ語オーストリア方言全般の辞典。その下はフリウリ語の辞書で、右側はラディン語の入門書ですが、どちらも前述したレトロマン語の仲間です。ヴェネト語の本は、まだ持っていない!

2014年8月24日日曜日

ロマンシュ・ロマンス・ロマンド

アルプスの中にベネディクト会の大きな修道院のあるDisentis/Musterという町にいます。ここは町の名前からしてバイリンガルで、前者がドイツ語で後者がロマンシュ語です。ロマンシュはレトロマン語のうち、スイスのこの地方グラウビュンデン州で使われている言葉。このブログのタイトルにも使われているロマンス語とは、古いラテン語が俗化した諸語の総称。そしてロマンドとは、フランス語の表現で、スイス内のフランス語圏のことを指します。ややこしいですね。


 町の中の標識表示はロマンシュ語・ドイツ語併記だったり、ロマンシュ語だけだったりします。また観光客相手のところは、ドイツ語オンリーだったり、駅の表示には英語も使われていたり様々です。

ラジオで聞くロマンシュ語は、ちょっとイタリア語みたいでもあり、発音がはっきりしていいるのですが、地元の人の会話しているのは何語かも判然としない微妙な音でした。写真左側はレトロマン語の旅行会話入門書、右側は子供のためのレトロマン語絵辞典ですが、1982年に作られた標準レトロマン語と、その3つの方言ヴァリエーションが併記されています。この地方の方言はsursilvanで、同じ州でももう少し東の方の方言がsurmiran、そしてもっとずっと東のイタリアのアルプス山中で使われているのがladinです。
umensとトイレの入り口にに書いてありました。womenみたいですがフィギュアを見ればわかるように男性用です。これはロマンシュ語表記なのでイタリア語uominiに似てなくもないけど・・・ アルプスの中では高い山脈によって言語の境界は決まっているところが多いものの、このロマンシュ語は山深い谷間にドイツ語とある程度共存しながら生き残ってきたので、はっきりとした言語境界線が(引け)ないケースも多そうです。



2014年8月23日土曜日

スイス語

ベルギー語が存在しないように、スイス語も存在しないのですが、スイスの言語についても色々とややこしいことがあります。公用語は4つと書きましたが、レトロマン語(ロマンシュ語)は地域限定の公用語という地位のようです。
スイスにおけるドイツ語は、スイスドイツ語と呼ばれるアレマン方言の一種ですが、ドイツに住む標準ドイツ語使用者には分かりにくいので有名です。ドイツのテレビでスイスドイツ語が使われた場合には、字幕が表示されていました。一方で標準ドイツ語も学校で教えられているし、マスコミも含め観光客が耳にする目にするものの多くは、スイスドイツ語でなく標準ドイツ語です。たぶんスイスは長年の歴史的経緯から、ナチスのような汎ドイツ主義には反対なのですが、経済や文化におけるドイツとの関係は重要だという志向が、スイスドイツ語を標準ドイツ語と付かず離れずの位置を維持させる政策となっているのでしょう。この点で、先に書いたルクセンブルグとは対照的です。写真はドイツ語圏からレトロマン語使用地域に入っていく言語境界、標高2044mのOberalppass付近です。

スイスにおけるフランス語は、本来はフランコプロバンス語と呼ばれる、オイル語(フランス語等)と
オック語(オクシタン諸語)の中間的言語です。ただ現在スイスで聞かれるのは、この言葉ではなくフランス語のスイスヴァージョンが中心だそうです。沖縄の本来の琉球語ではなく、現在使われているのは日本語の沖縄ヴァージョンだというのと似ている気がします。今回訪ねることはできませんでしたが、エヴォレーヌという南の方の山村では今もこのフランコプロバンス語が聞かれるそうです。


スイスにおけるイタリア語は、その西ロンバルディア方言を使っているそうです。標準イタリア語との差がどのくらいなのか、どのくらい使われているかなど、今から勉強します。写真はグラウビュンデン州とティチーノ州の州境で、ここから先の南側がイタリア語であることを示しています。




そしてその反対側を向くとそこはレトロマン語圏であることを示しています。スイスにおけるレトロマン語は、ロマンシュ語と言った方が正確でしよう。ということで、ここはイタリア語とロマンシュ語という2つのロマンス語の間の境界なのです。
続く・・・

2014年8月22日金曜日

3対1

ゲルマン語ロマンス語言語境界線と一緒にスイスに入りました。スイスの4つの公用語はロマンス語系のフランス語・イタリア語・レトロマン語とゲルマン語系(スイス)ドイツ語ということで、3対1をもってロマンス語の勝ち・・・とはならず、話者の数でいくとロマンス語系1に対してゲルマン語系2で、1対2で後者つまりドイツ語が優勢なのです。
  
ここが言語境界線が通過する周辺(LaufenとDelemont間)ですが、特にそれを示すものはありません。左に行くと次の村はドイツ語、右に行くと次の村はフランス語というだけです。 
次に通ったビール/ビエンヌ(Biel/Bienne) という町は、いつも独仏が併記される徹底したバイリンガルの町です。例えばこのように駐車禁止の説明も、こまごまと2言語で書かれています。多言語の国というとすべての人が色々な言葉を使い分けているように思われますが、大体の場所は一言語で動いていて、ここの様にすべてが2言語というケースは例外的です。以前TVで見ましたが、この町では子供の時から徹底したバイリンガル教育がなされているそうです。
ビールから20kmほど南東の、このムルテン湖の横を通った言語境界はフリブールの町を抜け南下しアルプスの中に入っていきます。アルプスの中でロマンス語の代表選手はフランス語からイタリア語とレトロマン語へとバトンタッチします。アルプスの中の道は極端に時間がかかるので、言語線に沿って走るのは今回は断念し、次の目的地へ向かいました。

 

2014年8月21日木曜日

三国境

フランス・ドイツ・スイス3国が交わる国境近くに来ました。ここは言語境界線よりは30kmくらいは東側に位置します。
レーラッハというドイツ側の町にある、三国博物館を訪ねました。先に述べたようにドイツとフランスは領土をめぐり戦争を繰り返してきたし、スイスは永世中立国であるがゆえに軍を整備し、国境線を固めてきました。そんな別々の文化と伝統を持つ三つの国が、今は平和的に協力して未来を築いていこうという、建設的展示がなされています。特別展では、第一次大戦時のこの地方のドイツの侵略と敗戦に伴う、住民の悲喜こもごもが描かれていました。

常設の展示の中に、言語に関する記述がありました。最初の部分で「ゲルマン語ロマンス語境界線がこの地方を通過しているけれども、アレマン語(方言)は3つの国に共通だ」と述べられています。それぞれ呼び方はアルザス語、スイスドイツ語、Badisch(Bade)と違ってはいるけれど、どれもアレマン語というわけです。歴史にif(もしも)は存在しないといいますが、もし国境などというものがなく、長く平和が続いていたら、ここは同じ言葉をしゃべり、同じ文化を共有する1地域だったことでしょう。国境を作るものは言葉の相違でも文化の相違でもなく宗教の相違でもなく、武力・権力・征服欲といったものなのですね。これって私たち島国の人間には、分かりにくい部分ではないでしょうか?







ドイツ語で Badischフランス語でBadeと呼ばれる言葉は、日本語ではバッド語(お風呂語)なのかな?この地方で話されている(どの程度かはわかりませんが)ドイツ語の方言あるいは変種アレマン語のその方言なのだそうです。写真左側がそのBadisch、右側はスイスドイツ語のミニ辞書です。

2014年8月20日水曜日

アルザス・ユダヤ人

言語境界線はロレーヌからアルザスを北から南に抜けて、スイスへと入っていきます。
アルザス地方とロレーヌ地方は、フランス語ではアルザス・ロレーヌ、ドイツ語ではエルザス・ロートリンゲンとして一緒に語られることが多いようです。今回両方に行ってみて思ったのは、ロレーヌはアルザスに比べて地味だということ。木組みの家並み、観光名所の多さ、お土産屋の充実など、どこをとってもアルザスは華やかな所です。写真はオベルネの町。
そんな派手なアルザスで誰も行かない(だろう)超地味なBouxwillerのユダヤ博物館を訪ねてみました。 中世にはライン川に沿っていくつかの町に住んでいたユダヤ人は、ペストの流行や十字軍運動に連動した迫害から、各地に離散していきました。その内のいくらかの人々が、そう遠くないこの地アルザスに住み着きました。この博物館もかつてのシナゴーグだったようです。先日ブリュッセルの反ユダヤ主義者によるユダヤ博物館の爆弾テロがあったので、ここに来るのはちょっと躊躇があったのですが、来てみるとほとんど人気のない場所で、テロリストもここま
では来ないだろうと安堵しました。

写真は博物館の中にあった展示で、アルザス語の中に残る、ヘブライ語起源の単語を並べたものです。アルザス語とは、ロレーヌのPlattと同様にドイツ語の方言ですが、アルザス人はドイツ人でもフランス人でもない、アルザス人としての誇りを強く持っていることでも有名です。やはりここでも伝統的言語使用者の減少は深刻なようですが、就職に有利といった現実的な理由から標準ドイツ語を学ぶ若者の数は増えているそうです。ただそれがアルザス語の保護に役立つのかは未知数ですが・・・


 前述のようにライン川流域を追われたユダヤ人たちは、今日のウクライナやベラルーシやポーランド付近に移り住み、それがアシュケナージと呼ばれるヨーロッパ系ユダヤ人の起源となったという説明は、つい最近までは主流でした。彼らの話すイディッシュ語というゲルマン語系の言葉こそが、その中世の移住の証拠だとされてきました。でも今日では異説が出ていて、本当のところは分からないままです。写真右は、アルザス語の入門書。












2014年8月19日火曜日

ロレーヌ

ロレーヌ地方に来ました。フレンチ・フレミッシュのカレー付近に始まった言語境界線はベルギーを東西に横切り、マーストリヒトとリエージュの間を抜けた所で向きを南に向けます。前に書いたSt-Vithの辺りを通り、ルクセンブルグ付近は不明確ながら大体西側のベルギー国境に沿って南下し、フランスに入ってティオンヴィルから南東に向きを変えロレーヌ地方に至ります。
ロレーヌは、ドイツ語でロートリンゲンと言い、2度の世界大戦が襲い、そのたびに国境線が変更されました。フランスもドイツも自国民を守るという大義名分の裏に、石炭と鉄鉱石という産業の基礎的資源欲しさから、この地方の領有にこだわり続けました。今日の国境線は、ドイツの敗戦の後に確定されたものなので、歴史的言語境界線よりかなり北を通っています。写真は田舎道から目には見えない国境線を見たところです。中央の並んでいる杭の左側がドイツで右側がフランス。

あまりに田舎道なので、国境を示すどんな標識も道路上にはなかったのですが、道端に小さな石碑が建てられていました。「過去には国が隔て、今は人が結ぶ」みたいなことが、独仏両語で書かれています。こんなのどかな何にもない場所で、多くの血が無駄に流されたかと思うと心が痛みます。命を守る、国を守る、国益を守る、自国民を守る、どれも似ているようで実は違います。自国民を守るというために、世界の大国は他国を侵略をしてきたし、今もしています。
 
 ロレーヌの言語線より北側の言葉は地元ではplattと呼ばれるドイツ語のロレーヌ方言でした。ドイツ語アレマン方言の一種らしいのですが、地元ではそういう意識はないのかな?plattとは低地のことでプラットドイチュというとドイツの北の方の方言を指すのですが、ここのplattはそれとは関係ないようです。通りがかった田舎の村でおじさんたちが、なまったドイツ語を話していたのがたぶんこれなんでしょう。
 もちろんここはフランスです、他のほとんどの聞こえてくる会話は想像通りフランス語でした。
この本は子供がこの祖先の言葉plattの単語やフレーズを学べるように、フランス語とPlattが対訳で短い話が書かれたものです。




宿(Petit-Rederchingという村)の人やレストランの人などは日常語はフランス語のようですが、上手な標準ドイツ語を使っていました。訪ねた近くの村や町では、ほとんどドイツ語表示を見かけませんが、教会の入り口や野に建つ十字架などにはドイツ語がしっかり刻まれていました。

2014年8月18日月曜日

ベルギー語

ベルギーで話されているのは、ベルギー語だと思っている人には関係ない話です。ベルギーの言語状況は非常にややこしく、全部は理解できませんが、まあ単純化すれば、「北側のフランドル地方はオランダ語(フラマン語)、南側のワロン地方はフランス語(ワロン語)で、東端には少数のドイツ語話者がいて、首都のブリュッセルは、オランダ語とフランス語のバイリンガル地域と指定されている」ということになります。でもフラマン語は方言差が激しく、西フラマン語はオランダ語ではないとか、ワロン語はフランス語の方言ではなく、フランス語同様にオイル語の一変種だとかいう主張も聞かれます。写真は西フラマン語を紹介した本。



ベルギーとフランスの国境には、川を挟んで
WervikとWervicq-sudという2つの町があります。川の両側に発展していた一つの町が300年前から政治的理由で川が国境線とされたために分裂国家ならぬ分裂町となりました。その後に川の南東側がフランス語化されたため、今日ではWervik(ベルギー側フラマン語表記)とWervicq-sud(フランス側は南という語をくっつけたフランス語表記)と書く別々の町となっています。

このように一つの町が、国境線によって2つに分裂した例はドイツ・チェコやイタリア・スロベニアにも存在しますが、今日ではEUのおかげで国境の意味が薄れ、町を再統一することも視野に入ってきているようです。ただここの様に言語が完全に置き換わってしまっている場合にはどの程度まで統一可能なのでしょうか・・・






 ベルギー内の通常の言語境界線(フラマン語とワロン語間)は、州境と重なっています。ということで線は目には見えませんが、このような標識で知ることができます。この位置から南がワロン語です。








反対側を向くとここからがフラマン語だと分かります。  言語境界線は、国勢調査のデータを使いベルギー国会によって1962年に定められましたが、現実にはそれによって言語問題が過激化することも多いようです。特にブリュセル郊外における言語問題は年々深刻化しています。





通常のベルギーの町は、フラマン語かワロン語のどちらかの言語しか使わないモノリンガルですが、10数ヶ所のバイリンガルの権利が認められた町では、役所の張り紙もこんな感じです。















ベルギー東部のドイツ語の使われている,St-Vith という町に初めて行ってみました。この写真のように警察polizeiという語はドイツ語だけですが、上のツーリストインフォメーションの看板には、国の3言語ドイツ語フランス語オランダ語が書かれています。カフェに行って見たら、ドイツ語しか聞こえてこなかったし、町並みも普通のドイツの田舎町のようでした。













 次の目的地に向かう途中にルクセンブルグを通りました。この国はもともとドイツ語の方言を使いながらも公文書や行政に使うのはフランス語という分裂した言語政策を採ってきました。現在では、そのドイツ語方言をルクセンブルグ語(レッツブルギッシュ)と呼び、学校教育では標準ドイツ語も平行して学んでいるようです。ただ目に見えるところに書かれているのは、標準ドイツ語とフランス語が圧倒的です。この写真は高速のドライブインの注意書きで、ここにはレッツブルギッシュはありません。


 ルクセンブルグはこのレッツブルギッシュを自分の国の言語としながらも、あまり積極的には使わない珍しい国です。アイルランドも理由は違うけど同じかな?車の中でルクセンブルグ語のラジオを聴きましたが、ドイツ語よりも柔らかく、フランス語の語彙への影響と、オランダ語っぽい発音が印象的でした。写真は子供のためのレッツブルギッシュの絵辞典。

2014年8月17日日曜日

フレンチ・フレミッシュ

フランスの北西の端にあるBerguesという町に来ました。やっと旅の本来の目的地、ゲルマン語ロマンス語境界にたどり着きました。ここは以前はオランダ語(フラマン語)が話されていた地域で、先日ここに載せた地図を見ていただけるとわかるように、中世と近代で言語境界線大きく北に動いた場所なのです。フランス領内のフラマン語使用地域ということで、英語でフレンチ・フラミッシュといっておきます。20世紀始めころまでは、多くの人がオランダ語を保持していましたが、2度の世界大戦の後の若い世代はほとんどフランス語しかできなくなってしまったようです。オランダ語を祖父母の世代には使っていたが、父母は聞いて理解はできるけれども、子供の世代は全くできないといわれた世代がもう60代以上で、現実的にはフレンチ・フラミッシュのフラマン語は死語になりつつあります。つまりこの地方の言語境界線は、あの地図に描かれている赤い線よりも北のフランス・ベルギー国境線と実質的に重なってしまったということです。
これが何にもない田舎の国境線です。 ベルギー側を見ています。










 これがその反対のフランス側の「税関」カフェ。













ただ文化的には、レンガづくりの町並み、運河、カリヨンの塔、コーヒーのまろやかさ、クロワッサンの洗練されなさ等々どこをとってもフラマン圏といった感じです。フランス国旗が立っているのはBergues市役所。Berguesはフラマン語名も持っていて、St-winoksbergenといいます。



2014年8月16日土曜日

ブレトン語

友人の住むブルターニュ半島の付け根の町に2泊しました。ブレトン語(ブルターニュ語)はブルターニュ半島の先端や内陸部で使われている(とされている)言語です。ヨーロッパ全体で古代には広く使われていたケルト語もゲルマン諸語やロマンス諸語に追い詰められ、最後にはブリテン島やアイルランド島とその周りの島々などにわずかに残るだけになってしまいました。ブレトン語はそのブリテン島から再び大陸側に舞い戻った人々の言葉で、ユーラシア大陸に唯一ここだけに残るケルト語系の言語なのです。写真はフランス語ブレトン語辞書。

ブレトン語は地名標識に使われている以外は、全く存在を確認することはできませんでした。お店の看板、メニュー、役所の掲示板、教会の案内などすべてがフランス語オンリーでした。もっとも半島も先端まで行けば多少は違うのかもしれないけれど・・・
標識の上がフランス語、下がブレトン語。





もう一つこの地域(半島の付け根やナントのあたり)では、ガロ語という(チベット系ではありません)オイル語(広義のフランス語とでも言えばよいのかな)の方言が使われています。フランス語のwikipediaを見て驚いたのには、地下鉄の構内の表示とかにガロ語の表記が存在していることです。一般にフランスでは存在する全く系統の違う言葉には本当に冷たいのに、同系統の言葉(方言といったほうが日本人には分かりやすい)には優しいことがわかります。例えばペルピニャンでカタルーニャ語の公共の表記を見たことないし、バイヨンヌでバスク語の同様な表記も見たことないのに・・・

言語とは関係ないけれど、ロシアがフランスに発注したヘリ空母が近くの造船所に接岸されていました。ウクライナ問題で欧米はロシアに制裁をかけている中で、この船は発注主に届くのか微妙な状態だそうです。

2014年8月13日水曜日

旅に出ました

昨日はバルセロナの近郊に泊まりました。朝ごはんを食べるために立ち寄った高速のドライブインの売店では一般の新聞(スポーツでない)9紙の内の4紙がカタルーニャ語(他はスペイン語)でした。
国の言語でない言葉の新聞が半分近い(売れる部数のことではなく種類のことですが)、これって結構すごいことなのです。このことはこの旅行で後々分かっていただけると思います。










そしてスペインとフランスの国境を越えました。

 これがその国境のモニュメント。何を意味しているのか知らないけれど、なんだか中南米のピラミッドのようです。








でも私にとって、より関心があるのは、カタルーニャの門です。
このモニュメントは10年ほど前に、スペインのカタルーニャ州のお金で国境から数十キロ北のフランスの地にに立てられたもので、ここから南が(本来の)カタルーニャ語地域であることを示しています。つまりここに国境とは別の言語境界線(カタルーニャ語とオクシタン語の)があることを示しているのですが、300年以上もフランス領であるこの地の、カタルーニャ語への愛着はさほど強くないように思われます。カタルーニャ語の話はしだすときりがないのですが、今年はバルセロナ陥落300周年とあいまって、11月9日にカタルーニャ独立を問う住民投票をして独立したい民族主義者と、そうはさせないとするスペイン政府との駆け引きが今日現在続いていて目が離せない状況なのです。今回の旅はそれがテーマではないので、先を急ぎますが・・・。
 今日の宿泊地はワインで有名なボルドー(本来はオクシタン語ガスコーニュ方言の地)近郊です。ボルドーワインを飲みながらカタルーニャ語とオクシタン語の比較 (実に良く似ています)などして頭が混乱(泥酔)しています。
オクシタン語(またはオック語)とは何か?wikipediaによれば話者600万人とあるけれども、実際には60人くらいしかいないんじゃないかとも思える変な言語です。中世には吟遊詩人の言葉として栄えたのだけど・・・