2014年9月8日月曜日

おわりに

旅から自宅に戻りました。まずは安いシャンパン(cava)でお疲れさまの儀式。
車で国境線を越えて変わるものって何かなって考えると、一番顕著に感じるのが道路の舗装です。もちろん道路標識や宣伝看板などの言語関係のものの変化はありますが、道路に使うお金の差、というか国の豊かさの差を感じることが多かったです。逆に言うと家並みとか農業や土地の使い方とかには国境の前後で変化は感じられないのです。つまり国境を越えても文化や生活は、いきなりは変化しないのです。
 
言語境界線というテーマで旅をしましたが、実は言語境界を何かで示しているケースはまれで、もともとだんだんに変わっていく言葉というものを、政治的境界線によって確定あるいは変化させているということが分かりました。 つまり現在では政治的境界たる国境線が言語境界とされている場合が多いのです。ベルギーだけは例外的に州境という形で、言語境界が存在しました。



言葉は相手との意思疎通の道具なのだから、会話ができコミュニケートできればそれで必要十分だという考え方があります。その一方で、お互いのアイデンティティ確認のための手段だという考え方もあります。同じ社会に帰属していることを、同じ言葉を使って示すということです。
私たちにとってドイツはドイツ語、フランスはフランス語、イタリアはイタリア語というのは当たり前のことのようですが、それでは納得できず、そこに存在するマイナー言語にこだわる人がたくさんいます。ひとつには自分の祖先の伝統の言葉だという思い、そして今日のインターネット社会では自分の居場所を求めて、ちょっと言い過ぎかもしれないけど趣味的に少数言語にこだわる人たちがいます。Wikipediaの他言語版というところをみると多いときには200もの言語バージョンが使われています。これは世界にはたくさんの国があるからではなく、世界にはマイナー言語の保護(あるいは推進)者がたくさんいるからです。たとえばフレンチフレミッシュの記事の中に登場した西フラマン語など、正直言って誰が使っているのといった言語なのに、ちゃんとwikipedia西フラマン語版が存在します。写真はpoperingeという町のビールで、その西フラマン語版wikipediaが存在します。




もちろん言葉は道具だけれど、もしかすると西欧などの豊かな国々では遊び道具なのかもしれません。これがこの旅の結論もどきです。
ロマンス語(カタルーニャ語)を使用しているうちの村のバールも、ゲルマン語系(イギリス人?)にすっかり占領されていました(笑)。
このブログはここで更新をやめますが、近い将来何らかの形で記録としてwebとして残しておきたいと思います。ここまでお付き合いいたいだいた方には、大変感謝いたします。 JOAN

2014年9月6日土曜日

ほとんど旅の終わりに

あと1日で家に帰ります。
写真はベジエールのカテドラル。











さて、フランスの言語地図を載せたので、今度はゲルマン語の側です。これが普通の言語地図で、ドイツはドイツ語、オランダとベルギーの半分はオランダ語、オーストリーやスイスのドイツ語圏も(高地)ドイツ語ということでまとめられています。











 そしてこっちが詳しいゲルマン語の分類です。オランダを見ると興味深いのが、南側と北側では色が変わっていて、北側の言葉はドイツと共通であるように書かれています。このようにゲルマン語の国の間にも、国境と言語境界の不一致が存在しているのです。ややこしいことです。




3枚の地図

ベジエールBéziersというフランス町に来ました。この地の本来の言語オクシタン語ではBesièrsと書くようです。町の中心を歩くと、アラブ系・アフリカ系の住人の多さに驚かされました。パリよりももっとずっと移民の町といった印象です。








さてこの地図ですが普通に見るヨーロッパの言語地図です。フランスは大体フランス語、ドイツは大体ドイツ語に塗られています。でも、よく見るとフレンチフレミッシュはオランダ語だし、アルザス・ロレーヌも南チロルもちゃんとドイツ語に塗られています。そしてイタリアの北西地域は違う色(たぶんフリウリ語)で塗られています。今回の旅で訪れた土地の言語事情をある程度は示しているのです。






 ところがこの図(オクシタン語の領域図)を見ると何か変です。フランスはフランス語のはずなのにオクシタン語がこんなに使われています。前にも書きましたがこの言葉は600万人の使用者がいることになっています。今日も滞在しているのBéziersの大型スーパーの書籍コーナーで探してみましたが、どんなオクシタン語の本も売っていませんでした。実は種を明かせば、私が持っているオクシタン語関係の本はすべてバルセロナとかカタルーニャ語地域で得たものなのです。つまりフランスでは、この言葉は無視されているのです。




 
そしてこの地図では、フランスで使われている言語を色分けして示しています。こんなに種類があるとは驚きですが、その一方でオイル語系(フランス語の仲間)とオクシタン語の区別は一応されているものの、言語間の距離感が出ていないという欠点もあります。バスク語やブレトン語とロマンス語系のカタルーニャ語やゲルマン語系のアルザス語等がまとめて何となく紫色系の異言語といった扱いになっています。つまり標準フランス語から一番遠い言語はバスク語でなければならないのに、バスク語はオクシタン語の親戚みたいに見えるし、プロバンス語というれっきとしたロマンス語が真っ赤にぬられて一番遠くに見えるのは変です。




このように言語地図というものは科学的のようでありながら、製作者の意図によってきわめて恣意的に作られていることが、この3つの地図からわかります。

今回の旅行ではありませんが、以前オクシタン語の地名を見つけたので写真を撮っておきました。赤に黄色い十字のマークも入った下の標識がオクシタン語です。でも調べて仰天しました、オクシタン語ではgodarguesと綴らなければければいけないそうで、じゃあこれは一体何語なの?

2014年9月5日金曜日

英語ってなにっと思う時

長かったゲルマン語とロマンス語の境界線をめぐる旅も終わりに近づきました。

昨日今日とイタリアを大きく横断してフランスまで戻ってきました。写真は宿泊したイタリアはクレモナの町。イタリア語ロンバルディア方言の地ということで、そういった本を探したけれどなかった!





 



ゲルマン語の世界で私のようなよそ者には、だいたい英語が使われます。そしてスラブ語圏でも、古いガイドブックにはロシア語の次にドイツ語が通用すると書いてありしたが、ここ数年に訪れたチェコ・スロバキア・セルビア・クロアチアそして今回のスロヴェニアでも英語の方がドイツ語より役立ちそうでした。一方ロマンス語圏の中ではフランスはかなり英語が通用するのに、イタリアではほとんど通用しないという経験をしました。写真は先日スイスアルプスの中のロマンシュ語地域での英語と日本語表記。観光の為とはいえ何だか・・・

英語の単語の約7割はロマンス語起源だといわれます。古フランス語からの借用と直接ラテン語からの借用が大半ですが、文法構造は崩れながらもゲルマン語のそれを保っています。ルクセンブルグのレッツブギッシュもそれと似ていて、ゲルマン語の構造上にロマンス語の単語を多く乗せています。地中海マルタ島のマルタ語は、アラビア語の構造の上にロマンス語の語彙が乗っている不思議な言語です。

日本人は、まず外国語を英語から習うせいで、英語を標準に考えてしまいがちですが、実は英語はかなり特殊な言語かもしれません。英語においてはゲルマン語とロマンス語のどちらに近いかという設問は意味はあるのでしょうか?というか言葉というのは、地理的に音韻変化するとか、俗化するとかいう説明よりも、もっともっとダイナミックに色々な原因で様々に変化しているものではないかと考えさせられます。
そして今日、国境線・学校教育・インターネットの普及が大きく言語状況を変えていっているとということも思い知らされました。古い時代には、近くの村の言語や地域の御領主様の影響が大きかったのに、今では地球の裏側で起こっていることの方が、より社会や言語に影響を及ぼしているのではないか、そんなことを考えています。
英語が世界のコミュニケーションの手段としてますます重要になっていく一方で、古くからの土地の言葉が失われてくことは正しいのでしょうか・・・わかりません。 今日の宿泊地はカンヌ周辺です、本来はここはプロバンス語なのですが、聞こえてくるのはフランス語だけでした。

2014年9月4日木曜日

分裂町

フランス・ベルギー国境でWervikとWervicq-sudのことを書きましたが、イタリアとスロヴェニア国境には、GoriziaとNova Goricaという国境で分断された町があります。
元は一つの町だったのに、間に国境線が引かれて2つになってしまいました。2004年以降は再び自由に行き来ができるようになったのですが、スラブ語系スロヴェニア語とロマンス語系イタリア語の世界って、将来は一つに戻れるのでしょうか?
これがイタリア側のGorizia。





反対側はスロヴェニアのNova Goricaです。鉄道はスロヴェニア側を通っているので、イタリア側から見ると国境線の向こうです。









 イタリア側のS.Gabriele(聖ガブリエーレ)通り52番です。











そのままスロヴェニア側に進んでその隣は、かつて国境検問所だった建物で、Erjavceva ul.53番です。もともと同じ通りなので言語と名前は変わっていての番号は続いています。ちょっと不思議!







これはGoriziaを出てすぐ隣町のLucinicoという町の出口の標識ですが、バイリンガルで書いてあったので後で調べてみました。イタリア語のwikipediaには、この地名についてこう書いてありました。Lucinico (Lucinîs in friulano standard, Luzinìs in friulano goriziano[2], Ločnik in sloveno, Lutschineick in tedesco, desueto).つまり2番目の表記は、フリウリ語のgorizia方言ということのようです。Goriziaではかつてイタリア語・ドイツ語・スロベニア語・フリウリ語・フリウリ語gorizia方言の5つが使われていたのだそうです。

言語境界などというものは、このあたりでは引くことは不可能だということが良く分かりました。 ただ今日では国と国の国境線が、実質的言語境界線となっていることも思い知らされました。

スラブ語圏へ

前に書いたように、ゲルマン語ロマンス語境界はアルプスの山の中で、ゲルマン語スラブ語境界に変わります。

オーストリア・スロヴェニアとの国境に近い、イタリアのウインタースポーツで有名なトレヴィーゾの町を通りました。先日行ったのはドイツ・フランス・スイスの三国境でしたが、今回はこの三国です。写真は道路の表示でトレヴィーゾからの距離を示していて、オーストリアまで7kmスロヴェニアまで11kmです。












この町は第一次世界大戦まではドイツ語・スロヴェニア語の話者が多かったのですが、それ以降ずっとイタリア領なので、現在はほとんどイタリア語話者中心になっているようです。ここに来るまでは、ゲルマン語系(ドイツ語)ロマンス語系(イタリア語またはフリウリ語)スラブ語系(スロヴェニア語)が同時に聞かれる町をイメージしていたのですが、現実はイタリア語だけの使われている普通のイタリアの町でした。町の表示もほとんどイタリア語で、ツーリスト相手のカフェでやっと見つけたのが、下の2行がドイツ語のこの立て看板。そしてまたレトロマンス語系のフリウリ語についても、イタリア語に似ているので、ちゃんとは確認できなかったけれども何もなさそうでした。

トレヴィーゾから写真の国境をこえてスロヴェニアに入りました。すべての表示はスロヴェニア語に変わりました。スラブの世界に入りました。かつては東西ヨーロッパの境だった場所も、今では誰もいない何もない寂れた場所です。







国境近くでスロヴェニア語・ドイツ語・イタリア語で書かれた宣伝看板を見つけました。でもこれは例外中の例外で、それ以降は見かけた表示は、ほとんどスロヴェニア語オンリーでした。宿やレストランでは、巧みな英語が聞かれ、アルプスの向こうで使われているドイツ語への頓着は感じられません。確かに英語もゲルマン語ではあるのですが・・・





泊まっているzasipという村の宿からの景色ですが、左の方には雪をいただくアルプスの高い山々がそびえているのに、右のほうを見るとその山脈がだんだんと低くなっていくのが見えます。アルプスを東に進む中で先にロマンス語がなくなり、ゲルマン語もアルプス山脈とともに消えてゆくのだなあと思いました。





写真はスロヴェニア語←→英語の絵辞典です。その中のパン屋のページを見ると、フランス語起源のクロワッサンのことをrogljic(最後のcの上にはvの小さいのがつきます)なのに、filled rollのことはsendvic(サンドウィッチ?)と言うようです。フランス語だと言い換えるのに、英語だと積極的に受け入れているのでしょうか?


















2014年8月30日土曜日

言語境界線と原発

まだオーストリー・アルプスの中にいます。言語のことではなく、原発のことを書きます。この地図はフランスの原発所在地を示したものですが、今回の旅行では随分と原発の近くに泊まったり通ったりしました。例えばグラブリーヌという一番北の原発から、20kmくらいのベルグbergueの町に泊まったし、東側のフェッセンハイムという所からは国境をこえて30kmくらいの所に滞在しました。私は世界中の原発がなくなった方が良いと考えてはいますが、今回の旅の目的と原発問題は関係ありませんでした。じゃあ何故に何度も原発のそばを通ったのでしょうか。これって偶然?もちろんフランスは原発大国なので、犬も歩けば原発に当たるのかもしれないけど・・・






この写真は今回の旅ではなく、昨年ローヌ川に沿った高速を走っている車中から撮ったものです。どの原発かは確認していませんが、高速道路のすぐ際に建っています。日本では海沿いですが、地図で分かるようにフランスでは川沿いに原発が林立しています。そして国境線沿い、人口の少ないところというのも重要な要素です。一方で私の旅の目的、ゲルマン語ロマンス語言語境界線はドイツとフランス国境線沿いだし、人口が多い都市化されたところは言語が変化しやすいので、どちらかといえば田舎を回っています。
この写真も今回のものではありませんが、シュパイアーというライン川沿いのドイツの町に、中世のユダヤ人の痕跡を訪ねました。行って驚いたのはこの町のわずか5kmの所に、フィリップスブルグの原発があることでした。ドイツは原発廃止を決めているものの、ここのようにまだ数年は稼動を続けるものもあります。フランスの原発地図では分かりませんが、このライン川沿いには、数々の原発が並んでいます。実はゲルマン・ロマンス境界は、かなりの部分でライン川に平行してその南側を進んでいます。これはローマ帝国領土の最大域とも密接に関わっているのです。そしてその歴史の証人ライン川は、今日では原発銀座でもあるのです。